「ナマエハ マダナイ」4月のショートストーリー
「花見がしたいと思わない?」
みさは、“モモ貴族焼きタレ”を串から外しながらそう言った。
みさがこういう言い方をする時はたいてい決定事項で、語尾をクエスチョンで終わらせているのは「ユイだってそう思うでしょう?」という意味。小悪魔的というか、なんというか。
「いつ?」
それ以外の質問はない。決定事項だから日にちと時間を決めるだけだ。あとは場所くらいだけど、きっといつもの公園だろう。みさとわたしの住んでいるところの中間地点。阪急三国駅から徒歩数分の小さな公園。あそこには、一本だけだけど幹が太く枝ぶりも立派な桜の木がある。「4月1日くらいがいいと思わない?夜桜がいいよね?」
このクエスチョンも決定事項。そうやって何気なく、いつもと変わらない遊びの約束みたいにして、わたしたちは花見をすることにした。
焼き鳥とビールで気持ち良く膨れたお腹を携えて、わたしたちはコーヒーショップを目指し夜の商店街を闊歩していた。塩辛い食べものをたらふく食べたあとに甘いコーヒーを飲むのも、わたしたちのお決まりだった。ドトール、タリーズ、上島珈琲、たまにスターバックスにも行った。冒険より安定派のわたしたちは、チェーンのカフェにしか入らなかった。今日は「黒糖のやつが飲みたいよね?」とみさが言ったので、上島珈琲一択だ。わたしも、黒糖のやつが飲みたいと思っていたからいいんだけど。
上島珈琲はいつもより空いていて、手前のふかふかの二人がけが空いていた。あそこにどっしりと座ってだらだらと喋るのが、ここの醍醐味だと前にみさは話していた。「コーヒーショップは全部あのだらだら椅子にしたらいいのに」とも言っていた。みさはオシャレさ重視の座面の小さい椅子なんかは苦手だった。それは彼女のふくよかさ故だろうと密かに思っているのだが、まだ口にしたことはない。ちなみにわたしは、一人の時はオシャレ椅子に座る。若さとか女らしさとか、そういうものをまだ身にまとっていたかった。
みさは黒糖のアイスコーヒーに、アンパンまで付けた。
みさの胃袋は10代の頃から変わってない。気持ちがいいくらいにたくさん食べる。食べれば食べるだけ蓄えるから、多少は気をつけて止めてやった方がいいんだろうけど、食べているみさがあまりに幸せそうなので、わたしは「好きなだけおたべよ」と言ってしまう。
わたしの胃袋はというと、着実に歳を重ねている感じがする。去年だったらアンパンを食べるか悩んだかもしれないけれど、今年は美味しそうとも思わなかった。ちなみに一昨年だったら、みさと一緒に手に取っていた。着実な老い。
「花見するのはいいけど、咲くかね、桜」
さてそろそろ帰ろうかという頃、わたしはどうしても心配だったことを口にした。花見はする。するんだけど、はたして桜は咲いているのか?
みさの指定した4月1日までは一週間もない。3月後半と言えど春には程遠く、夜はまだ厚手のコートが必要なくらい寒い。桜の蕾は膨らむどころか、全身を固く閉じて、咲いてやるもんかとばかりに主張している。
今年はとくに遅咲きらしく、桜前線はまだ九州を越えたくらいだったし、「桜の見頃は来週以降になりそうです」と昨夜のニュース番組で聞いたばかりだった。
「大丈夫。咲くから。」
みさは自信に満ちた顔でそう言うと、カバンを担いで立ち上がった。
[ つづきは4月26日の「ナマエハ マダナイ」にて ]
黒い箱:1
なくしたんです
大切だと思っていました
きっと大切にしすぎたせいで
なくしてしまったんだと思います
なくなってしまったら
大切なものが何だったのかが分からなくなってしまって
ここがどこで
どんな色をしていて
2本の足が地面にくっついているのか
空気を吸ったり吐いたりできているのか
それすらも分からなくなってしまって
もしかすると
もうすぐ自分の名前まで忘れてしまうんじゃないかと
こわくて
わからないんです
おそらく深夜1
野ざらし
冷たい雨と
砂埃を立てる風が
お気に入りのオーバーオールを黒くしていく
野ざらし
白く光る太陽が
肌を焼いた
夢へと誘う月が
脆い心を砕いた
それでもわたしは帰らなかった
帰るところがどこなのか
忘れているのだ
いや
はじめから知らなかったのかもしれない
繁華街は
今も明るい
人々の声を隠すように
点滅する光が
わたしを動かす
わたしはここで止まれない
止まれずに
何かを訴えようとしていた
わたしの古い記憶
パンジーの真ん中で笑っていた写真より
ずっと
ずっと前の
わたしは何も知らない
白い塊だった
求めることしかできない
ただの赤ん坊だった
必要な言葉が
まだ足りないのかもしれない
これ以上の愛の囁きを
知りたい
パンジー
今はもう
そんなに好きじゃないけど
お母さんが好きだっていうから
今年もまた
プランターを並べるのだろうな
海と毒の話A:1
あのこが死んだ
わたしのいっとう大切にしていた、あのこが死んだ。
夏の暑い夜
海に入って、そのまま帰ってこなかったらしい。
と、共通の知人が噂しているのを聞いた。
あのこのことを、わたしに直接話す人はいなかった。
そのくらいの距離
そのくらいの関わり
そのくらい、常にわたしはあのこを遠ざけていた。
あのこが死んだ
わたしのいっとう大切にしていた、あの子が死んだ。
あのこはことあるごとに手紙をよこした。
手紙には「まだ好きです。」
とだけ書かれていた。
わたしはそれに安心して
また少し、あのこのことを忘れるのだった。
手紙に返事を書くことは最後までなかったのだけれど
返せば良かっただろうかと、少し後悔した。
返事をしていたら
あのこは死ななかったのだろうか。
それでもやっぱり
死んでしまったのだろうか。
海と毒の話:4
他人に触れるということが
あまり得意ではなくて
母親と手を繋ぐのも
たまに抱きしめられるのも
恥ずかしくて
うまくできなかった
死にたいとまでは思わないけど
蒸気になって消えてしまいたいって思うことない?
そう問いかけたのは
わたしだったか
あのこだったか
うん。思う。
そう答えたのは
わたしだったか
あのこだったか
わたしは今
なくなっていく二人のつま先を見ながら
お父さんの枕元にあったアロマディフューザーを思い出していた
とても細かい霧だった
どこも痛くはなかった
このまま消えて
この子の黒いサラサラのストレートも
わたしの茶色いパーマも
全部がなくなってしまっても
繋がった手だけは残っているような気がした